アーサー・ビナードさんのこと

いつの頃だったか。

めくっていた新聞の、ちょうど真ん中辺りに細長い記事があった。中原中也賞を受賞した詩人のことが紹介されていた。詩集のタイトルは、『釣り上げては』(思潮社 2001)。


釣り上げては

父はよく 小さいぼくを連れてきたものだ 
ミシガン州 オーサブル川のほとりの 
この釣り小屋へ。
そして或るとき コーヒーカップも 
ゴムの胴長も 折りたたみ式簡易ベッドもみな 
父の形見となった。 

 

カップというのは いつも欠ける。
古くなったゴムは いくらエポキシで修理しても 
どこからか水が沁み入るようになり、
簡易ベッドのミシミシきしむ音も年々大きく 
寝返りを打てば起こされてしまうほどに。 

 

  ものは少しずつ姿を消し 記憶も 

  いっしょに持ち去られて行くのか。 

 

だが オーサブル川には 
すばしこいのが残る。
新しいナイロン製の胴長をはいて 
ぼくが釣りに出ると 川上でも 
川下でも ちらりと水面に現れて身をひるがえし 
再び潜って 波紋をえがく――  

 

食器棚や押入に しまっておくものじゃない 
記憶は ひんやりした流れの中に立って 
糸を静かに投げ入れ 釣り上げては 
流れの中へまた 放すがいい。

 

釣り上げては

釣り上げては

 

 

「なんとなく」日本語で話していることは、英語にするとその日本語の良さでもある曖昧さが足を引っ張ることがある。わかる、わかる。もどかしいよね、と言うのだけれど、本当のところはわからない。やはりその人にしか分からない感情や思いは、その人に言葉にしてもらうしかない。きっとそれでも充分ではないのだろうけれど。


 ことば使い

「吠えろ」と怒鳴り
「芸になってない」
 と鞭打つ。

 一行の
 輪抜け跳びを
 何回もさせる。

 いくらおとなしく
 馴れているようでもやつらは
 猛獣。

 

英語なんてただのツール(道具)だ、という人は少なからずいるけれど、冗談じゃない。日本語、英語、言語が何であろうが、全ての言葉は猛獣という生き物だ。

 

ある日、『焼かれた魚 TheGrilledFish』(小熊 秀雄 / 文・アーサー・ビナード / 英訳)というタイトルの絵本を夫が買ってきた。あなたの好きなビナードさん訳のどうしようもなく救われない魚の美しくてやるせない本だよ、と言う。

 

そのどうしようもない気持ちにさせられる本に、ビナードさんが出会ったのは、通っていた日本語学校の教室だったそうだ。教材として使用されていた『焼かれた魚』に、ビナードさん自身も衝撃を受ける、そして自分がこの本を翻訳したいと強く願った。

 

焼かれた魚―The Grilled Fish

焼かれた魚―The Grilled Fish

 

そのビナードさんが、ある月曜日の朝、福島潟へやってきた。

みんな一緒に潟舟に乗って、たわいのない話をした。
潟端で暮らす潟先案内人・Hさんの「テネシー州はどこにあるのかね?」の突然の質問にみんなで笑った。Hさんはそんな私たちのことはお構いなしにくるくるとワルツを踊った。ビナードさんはとてもよろこんで、とてもチャーミングに、うれしそうにわらった。

ああ、いい時間だな。

声をかけてくれたAさん、ありがとう。
こんな一日もあるものだ。

 

 

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