また明日

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今日は私の大好きな山下 治さん(夫の父)のことを書きます。

治さんは、2016年11月19日午前6:32分に遠いところへ旅立ちました。

この写真は2009年7月に撮影をしたものです(治さんは二列目中央で帽子をかぶっています)。この時はまだ元気いっぱいで、私が突然「アメリカから来る合唱団の少年たちのホームステイ先を探しています。二人受け入れてもらえませんか?」とお願いしたときも、びっくりする程あっさりと、「ええよ」と言ってくれました。

1週間程度預かったと記憶しているのですが、毎日練習先への送迎があったり、思春期真っ只中の少年たちとの交流、食事の準備など、なかなかハードなスケジュールをホスト側も強いられました。内心(だいじょうぶかな〜)と心配していたのですが、我が家でも二人の少年を引き受けていたため、ほぼお任せ状態になっていました。しかし治さんは相手がどこの国の人であっても、全く問題ありませんでした。

英語は話せないのに、あーだこーだとうれしそうに話しかけ、少年たちがきょとんとしていても御構い無しでした。それでも、子供達は自分たちを好いてくれる人のことはわかります。そのうちに一緒になって大笑いしていることもあって、見ていて本当に楽しそうでした。

またある時は四国へお遍路に出かけ、宿で困っているドイツ人に遭遇、声をかけたところまではいいものの、お互いに何を言っているのかわからず、私の携帯に電話をかけてきたことがありました。電話越しにそのドイツ人とお話をしましたが、本当に困っていたようで、間に入って通訳をしてあげて、彼は無事に帰国することができました(その後、彼からは感謝のメールが届きました)。その話は治さん本人にとって、愉快な思い出として心に残ったようで、新潟に戻ってきてからも「あの時は助かった!」といたずらっこのような笑みを浮かべて、何度も話をしてくれたことを思い出します。

お葬式の時に、四国で暮らす治さんの兄弟や、一緒にお遍路の旅をしていた友人の方から、「あんたがそうやったかー!いろいろ楽しいことを持って来よる(息子の)嫁がいると治が言ってたけん!」(愛媛・松野町弁、間違ってたらすみません。こんな感じでした)といろいろな人たちから言われて、うれしさと寂しさで胸が苦しくなりました。

今でもときどき、なぜここに治さんがいないのか不思議に思うことがあります。
遊びにいくと、「おお〜風呂入れ〜」とまずは風呂(笑)からおもてなしが始まるのですが、あののんびりとした優しい声は今は聞こえてきません。

わたしもあなたも、誰もこの世界に永遠にとどまり続けることはできないとわかっています。でも本当にわかっているわけではなかったことを、こうして大事な人を亡くしてみて、激しく動揺する心や身体が教えてくれました。

この世界に生きて、そして死んでいくことは自然なことであると頭では理解していたと思っていたのだけれど、それでも時折、喉の奥がひりひり痛みます。

でもそれが生きているということなのですね。

入院先の病院で「また明日」と言って、のりちゃんを見送り、その翌日の朝亡くなった治さん。どこまでも前向きな人でした。治ると信じていたから、17年も病と闘ってこれたのだと思います。

思い出しては泣いて、思い出しては、少しだけ笑ってしまうチャーミングな人。

もっとお話したかったです。これからは一緒にいきますよ!